学部長・教授

奥田 隆男

Takao OKUDA

専門: 社会思想史

京都生まれの人間です。でも大学は金沢で、1975年3月に金沢大学法文学部経済学科を卒業し、同じ1975年4月に、京都に戻って京都大学大学院経済学研究科に入学しました。10年近く大学院に在籍し、1984年3月に満期退学しました。持っている学位は修士(経済学)です。大学院在籍中にドイツに留学したことがあります。その後、姫路日ノ本短期大学助教授を経て、1998年4月から名古屋外国語大学教授として働いています。

詳しい経歴

本来人は自由です。

「人は自由です。」と私はよく言います。でも「本来人は自由です」と言った方が正確かもしれません。本当は人間は自由なはずなのですが、今の私たちはいろんな形で束縛されてしまっています。中学や高校の「校則」などはその典型です。でもなぜ、そんないろいろな規則に縛られなければならないのでしょうか。規則は必要なものなのでしょうか。規則無しでもっと自由に生きられるのではないでしょうか。この、自由に生きる可能性を探るために人は学ぶのだと私は思っています。

学ぶことが多ければ多いほど、あるいは深ければ深いほど、「これからどうしよう」と思ったとき、自分の前にある選択肢は増えます。さらに同じ問題に直面しても、こうも考えられるしああも考えられるという考え方の選択肢も増えます。学びは自由の獲得に結びついているのだと思います。だから、学びは教師から「しろ」と言われたからするものではないのです。自分の自由をもっと獲得するためのものですから、自分の中から学びの意欲が出てきているはずです。それが大学生の学びです。この大学生の学びを私たち教員と対話しながら経験してみませんか。それが皆さんへの私のメッセージです。

専門分野

私の専門は本来は「社会思想史」というものです。人々が「社会」というものをどう考えてきたか、その跡を追いかけてみようという学問です。その中でも私は、19世紀末から20世紀初めにかけて「社会学」という学問分野がドイツではどういう経緯で成立してきたかを考えたいと思って研究を始めました。

ところが困ったことに、研究を続けている内にどんどん調べたいテーマが増えてきて、「家族社会学」といった分野にも手を付けるようになりました。さらに映画の歴史などを考える「表象文化論」という分野にも関心を持つようになってしまいました。専門分野について収集がつかなくなってしまっているというのが実情です。

学科で教えていること

自分の研究分野がどの範囲のものなのか収集がつかなくなってきたのに比例して、受け持つ科目もいろんなものになっています。現在、国際教養学科の専門科目としては映画の歴史を考えてみる「表象文化論」や日本と欧米の文化の違いを考える「比較文化論」などを担当しています。

さらには、国際教養学科が力を入れている「Academic Skills」という1年生の皆さんの必修科目も担当しています。この科目は大学4年間の学びの基礎を作るための科目で、教員が少人数クラスを担当して、大学生の学びとは何かを学生一人一人と対話しながら考えていく科目です。私一人が担当しているわけではなく、国際教養学科の教員の多くが関わっている科目なのですが、一人の学生と1時間以上、対話することも結構多い面白い科目です。

それと「専門ゼミナール」という3・4年生対象の少人数クラスも担当しています。学生一人一人が自分の研究テーマを決め2年かけてじっくり研究をするという科目です。いろんなテーマを学生の皆さんが各自選び、私と話し合いながら研究を進めていくという科目です。これも学生一人一人と1回1時間以上話し合うことが多く、いろんな話しができて面白いものです。

担当科目

表象文化論、比較文化論、自己再構築論、キャリアプランニングなど

ゼミのテーマ

ゼミのテーマは「比較社会論/比較文化論」です。

様々な社会や文化を比較する作業を通して、視野を広げ、日本と世界の諸問題を自分自身で考えることができるようになろう、というのがゼミの目標になっています。そんなゼミで学生は関心あるテーマを自由に選んでいいことになっています。人・文化・社会に関係するテーマならばどんなものでも構いません。

これまでのゼミメンバーの研究テーマを数例紹介しますと、たとえば、「松本人志という生き方の研究」というのがあります。これは松本人志の発表されているビデオを全部見て、彼の笑いの秘密を解き明かそうという研究です。あるいは、「障害者雇用と自立」というテーマの研究もありました。これは現在国の制度として障害者雇用制度というものがあるのですが、実際に調べてみると結構矛盾だらけのところがあるということを、研究結果に基づいて指摘したものです。このテーマでのレポートが出た1年後に、実際に障害者雇用制度には問題がいっぱいあるということがメディアでよく問題にされました。この研究はメディアよりも先に同じ問題を指摘していて、その予見力は素晴らしいものがありました。

もう一つ紹介すると「あいまいさとは何か」という研究もありました。日本文化の特徴の一つに「あいまいさ」というものがあると考え、そのあいまいさを表している代表的な芸能として「能」に着目したものです。実際の能の舞台を鑑賞し、そこで流されている笛の音の一つ一つが実は意味を持っているのだということを、研究した学生自身が分析したという、分析力のすごさが目立った研究でした。

このようにゼミの学生は各自思い思いにテーマを選び研究し、そして最後はそのテーマについてゼミの卒業論文を作成して卒業していくのですが、中には4万字以上書く人もいます。読み応えのある論文を私自身は毎年読ませてもらっていて、それは教員である私にとってとても楽しい経験です。

基礎ゼミテーマ

比較社会論入門:人・文化・社会についての考え方を養う

専門ゼミテーマ

比較社会論:人・文化・社会を多角的にとらえ分析する

主な著書

  • 『視覚と近代』(共著、1998年、昭和堂)
  • 『現代家族論』(共著、1995年、化学同人)
  • 『社会思想史を学ぶ人のために』(共著、1994年、世界思想社)

最も影響を受けた書籍

いろいろあるのですが、一つだけ挙げるとすれば、伊藤整の『日本文壇史』でしょうか。これは明治時代、文学を志した若者たちの生き死に(多くの文学者が20代30代亡くなっているのです)を描いた書物です。伊藤整という人は詩人として出発し、その後小説を書くようになり、また英文学の翻訳も行った作家です。彼の書いた『日本文壇史』は18冊からなるものですが、実は著者の死によって完結していないのです。彼の死後、友人が残されたプランにしたがって完結させたのですが、伊藤整本人の書いた18冊と友人が完成させた部分とは別のものとして考えた方がいいと思います。

で、どんな影響を受けたのか、ということですが、一つは文章の明確さではないかと思います。18冊を繰り返し読むことで、文章は明確なものでなければならないという考え方に私は染まってしまったように思います。それほど伊藤整の文章は明確・明晰なのです。もう一つは、物語の大事さでしょうか。人の考えることは「AだからBだ」という形で繋がっていくのですが、そのつながりをどんどん伸ばしていくと、一つの物語になるように思います。日本文壇史に登場する作家たちは、各人が各人の物語を生きています。物語を考えることの大切さを『日本文壇史』は教えてくれたように思います。