スーパーアドバンストPBLプログラム『PBL Literacy』
常に挑戦する「オンサイト」型の国際教養教育
ジャーナリストとのコラボレーションによる「リテラシー」能力の開発

発信力を高める文章講座

2.学生の作品


現代国際学部 国際教養学科 中面くるみ

傷ついて知ったこと 【第9稿】

 私は、昨年の8月から今年5月までのおよそ9か月の間、アメリカに留学していた。ある日、私は寮の1階で洗濯をし、洗濯かごを持って4階の自分の部屋へ階段を上っていた。上から降りてきた3人のアメリカ人女子学生とすれ違った時、すれ違いざまに、学生の一人が「すみません、と言わないのか」と私に怒鳴ってきた。私は驚いて頭が真っ白になった。
私は、洗濯かごを両手で持って上っていた。階段の幅は、身体の大きな彼女たち一人ずつと私が並んで通れるほどだった。彼女たちは、黒人学生が1人と白人学生が2人の3人で、横に並んで降りてきたが、私とすれ違う時には一列になった。私は、邪魔にならないようにと自分の前にかごを持って少し立ち止まり、彼女たちが通り過ぎるのを待った。すると、黒人の学生が「すみません、と言わないのか」と私に向けて怒鳴った。私が彼女たちの通行の邪魔をしてしまっていたので、一言すみませんと言うべきだったかもしれない。
その時、私は面と向かって非難されたのは初めてで、何も返答できなかった。すると、黒人学生が立ち止まって笑いながら、「私、英語わからないの」と私のまねをするように片言の英語でおどけて言った。2人の学生も、「そうだね」「なるほどね」と言い合い、笑いながら去って行った。私は英語ができないことをバカにされ、とても腹が立つと同時に悲しかった。
私が滞在したこの町は、ケンタッキー州の山に囲まれた田舎町で外国人は30人から40人程度で、とても閉鎖的だった。この出来事のあとでわかったのだが、私に怒鳴った黒人の学生は私と同じ授業を前期に受けていた。前期は、その地の独特なアクセントに戸惑い、授業で質問されても分からないことが多かった。それを彼女は覚えていて、私に今回のこの嫌がらせのようなことをしてきたのかもしれないと考えた。
翌日、私は仲の良いエクアドルからの留学生ジョアナに、その出来事と悔しく悲しい胸の内を話した。スペイン語が母語の彼女も、アクセントや発音でバカにされたことがあると私に話してくれた。そして、「そんなことを言う人は気にしないで、私にはあなたの気持ちが分かるから」と私に寄り添ってくれた。彼女が共感してくれたことは、私の心を楽にしてくれた。
英語ができないことを面と向かってバカにされることは、とても悔しく悲しいものだった。それまで自分の英語についてバカにされたことのなかった私にとって、この出来事は衝撃的で印象に残るものになった。母の教えである自分がされて嫌なことはするなということを改めて心に誓うと同時に、たった一言「すみません」と言わなかっただけでこんなにも悲しいことを言われてしまうという恐ろしさを知った体験だった。

【第1稿】

約9か月の間アメリカに留学し、一度だけ人種差別を経験した。留学先は、ケンタッキー州の人口8千人にも満たない小さな町の大学で、アジア人は学内に私を含め8人という英語習得には最適な環境だった。大学は、アットホームで先生方もとても親切にしてくださり、友達もでき、忙しいながらも充実した日々を送ることができた。
 帰国2か月前にそれは起こった。私は寮で洗濯を終え、1階の洗濯室から4階の自分の部屋へかごに入った洗濯物を持って、階段を上っていた。すると、2階からアメリカ人の学生3人が下りてきた。私は、邪魔にならないようにと自分の前にかごを持ち、通り過ぎようとした。すると、そのうちの一人が「すみません、と言わないのか」と私に怒鳴ってきた。私はそのように言われるのは初めてで、頭が真っ白になり、何も言い返せなかった。
 そこまでは、私が一言すみませんというべきだったと思うのだが、問題はここからだった。彼女たちは何も言えなかった私に対して笑いながら、「私、英語わからないの」と私になりきったように片言の英語で言い、そして3人で笑いながら去って行った。彼女たちは、私がアジア人だからという見た目で英語ができないと判断し、そのようにバカにしたのだ。とても悔しかった、と同時にこれが人種差別かと実感した瞬間でもあった。
 アメリカから遠く離れた地に住み、アメリカでは少数派のアジア人は、英語ができないというのが彼らの固定観念としてあるのだ。この大学は、スポーツが盛んで、ヨーロッパや南アメリカからのスポーツ留学生が多かったけれど、彼らが、たとえ彼らの第一言語が英語でなくても、私のように見た目で英語ができないと判断されることはほとんどないだろう。
 日本は島国で大半が純粋な日本人であり、日本語しか話さない人が多いのは事実である。そのため、彼らの固定観念は対日本では、ある意味正しいかもしれない。けれど、日本でも英語教育は長年行われてきているにも関わらず、このような状況にあるのはおかしいと思う。その状況と固定観念を変えていくためにも、私は改めて英語を世界で使える人材になっていきたいとこの経験を通して、改めて思った。

【第1稿への講評】

この文章では、文章にしようとしたあなたの体験の場面が、あなたに認識されていることがよいと思います。ただし、その体験は十分に文章化されているとは言えません。
 まず、アメリカ人学生3人についての記述がありません。あとで「彼女たち」とあるので、3人とも女子学生ですか。アメリカ人と言っても、白人も、黒人も、ヒスパニック系もいるでしょうが、どのような人たちですか。3人が視覚的に見えませんし、すれ違う場面が描かれていないので、なぜ、「すみません、と言わないのか」と言われ、あなたが<一言すみませんというべきだったと思うのだが、>と書いているかが分かりません。「すみません、と言わないのか」と言った学生と、<「私、英語わからないの」と私になりきったように片言の英語で言った>学生は同じ学生ですか、別の学生ですか?
  あなたの体験に第1行目から「人種差別」というレッテルを張っていますが、レッテルをはって何かを理解したととらえ方では、判断を誤ります。体験は個人的な体験ですから、3人のアメリカ人と間であった出来事を再現し、あなた個人として、その出来事の意味を考えなさい。英語ができないことをからかわれた経験を、「人種差別」ととらえないで、あなた自身があなたの体験を、どのように意味づけるかを考えてみましょう。
 最後の締めで、日本の話になっているのは、アメリカでの体験から離れて、単なる英語ができない日本人について一般論になっています。締めは、それまでに書いてきた体験についての意味づけです。

※自分の体験が、それを体験していない読者に伝えるように書くためには、何が起こったかという自身の体験の場面に立ち返る作業であり、その過程で筆者自身が、体験の意味を考えることになる。この文章では最初の文章では、3人の学生についての描写はなかったため、いま問題になっている白人至上主義者による行動かと思うが、具体的に場面を書いた修正稿によって、一人は黒人であることが明らかになった。それでは当初の「人種差別」というレッテルは当たらないことが分かってくる。体験を文章として再現するのは、読者に伝えるためであるが、同時に、筆者自身にとっても、自身の体験に向き合い、改めてその体験の意味を考察するプロセスとなる。。

 発信力を高める文章講座


1.情報発信者を養成する文章講座の取り組み(川上泰徳)
2.学生の作品
 2-1.言葉のないコミュニケーションから学んだこと
 2-2.諦めないこと
 2-3.「伝える」コミュニケーション
 2-4.オーストラリアでの失敗から得た教訓
 2-5.弟の職業体験から考える賃金格差
 2-6.私が感じた情報格差
 2-7.楽しい世界の造り方
 2-8.「二度の受験を乗り越えて」
 2-9.傷ついて知ったこと
 2-10.旅から学んだこと
 2-11.ホストマザーとのコミュニケーション
 2-12.セックスワーカーの女性たち
 2-13.取材を通して学んだこと
 2-14.日本とインドネシアの架け橋
 2-15.「コミュニケーションが与えるもの」
 2-16.百崎先生との大学受験
 2-17.国境を越えるコスプレ文化との出会い
3.参加者の声
4.取り組みの狙い(佐藤都喜子学科長)